2025年9月21日主日礼拝説教ルカ11:1~4「祈りを教えてください」
今日の箇所は、主イエスが弟子たちに主の祈りを教えておられる箇所です。私たちが毎主日ごとに礼拝で祈っている主の祈り、主イエスが弟子たちにお教えになられたから主の祈りと呼ばれるわけですが、それはもともとは聖書に書かれている祈りであるわけですね。
私たちは、今、月の初めの主日には十戒の御言葉に聞き始めていますが、ちょうどルカ福音書が主の祈りの箇所に入りますので、この機会に主の祈りも一気に読んでしまうのではなくて、一つずつその祈りの言葉に聞いていきたいと思うのです。というのも、十戒、主の祈り、そして使徒信条というのは、三要文(三つの重要な文章)といって、イエス・キリストを信じる教会の信仰の基礎として大事にされ続けてきたものだからです。何年か前にこの教会でもこの三要文で説教をしたことがありますけれども、これらの文章は何度繰り返して学んでもよいものですので、これから改めて学び直すつもりで聞いていきたいと思うのです。
さて、その主の祈りですが、今日はその前段階、そもそも主の祈りとは何だろうかというお話をいたします。主の祈りというのは、先ほども申しました通り、主イエスが教えてくださった祈りです。私たちに「このように祈りなさい」と言って、主ご自身が教えてくださった祈りです。今日お読みしましたルカによる福音書の11章1-4節を共にお読みしましたが、ここでは主イエスの弟子の一人が、主イエスにこのように尋ねるのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」ヨハネというのは洗礼者ヨハネのことですが、当時ユダヤの指導者たちはそれぞれに祈り方を持っていて、弟子たちにそれを教えていたようです。そして、洗礼者ヨハネもまた、その弟子たちに祈りを教えていた、ということが前提としてあります。主イエスに問いかけた弟子の一人も、おそらくそれにならって、主イエスに祈りを教えてくださいと言ったのであります。そして、それに応えて、主イエスはお語りになったのです。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」
これは、私たちが普段祈っている主の祈りとは少し違っていますね。私たちが普段祈っている主の祈り(天にまします我らの父よ~)は、古い訳が今でも日本中で使われています。しかし、訳の違いだけではありません。使われている文言なども、見てみると違っていることが分かります。
実は、新約聖書に記されている主の祈りというのは、もう一つあります。それは、マタイによる福音書6章9節以降(新約9頁)にあります。みなさんにもお開きいただきたいと思います。こちらにも主イエスが主の祈りを教えておられる場面があります。こちらの主の祈りはルカ福音書に書かれている主の祈りとまた微妙に違うことが書かれているのですが、そもそもルカとマタイでは文脈が全く違っています。ルカによる福音書では弟子が「祈りを教えてください」と尋ねて主イエスがお語りになったのに対し、マタイでは5章から続く「山上の説教」と呼ばれる主イエスの長い説教(山の上で語られたから山上の説教と呼ばれるのですが)の一部分として語られています。
マタイ福音書ではどういう流れでそれが語られているか。それは、主イエスが「祈るときにもあなたがたは偽善者のようであってはならない」と教えられるところから始まります。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」ここで偽善者というのは、ファリサイ派だとか祭司長だとかの、当時のユダヤの指導者たちのことを言っています。当時、そのようなユダヤ教の指導者たちは、好んで人前で祈っていたようなのですね。しかし、その祈りは人に見てもらうための祈りで、実は神様に向かっている訳ではなくむしろ周囲の人たちに向かっている。そのため、主イエスは彼らを偽善者と呼んだわけですね。それに対して、主イエスは「あなたがたが祈るときは奥まった自分の部屋で戸を閉めて、隠れたところにおられる神に祈りなさい」とおっしゃいました。そうすれば、隠れたことを見ておられる神が報いてくださる、おっしゃるのです。
また、あなたがたが祈るときにはくどくどと述べてはならないともおっしゃいます。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」これもおそらく、当時そのように長々と祈る人たちがいたのだろうと思います。しかし、言葉数が多ければいいというものではないのだ、と主イエスはおっしゃる。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じなのだ。」つまり、天におられる神は、私たちが願うことはみなご存じだ。私たちにとって必要なものが何なのか全て知っておられる。「だから、こう祈りなさい。」そう言って、主イエスは主の祈りをお教えになるのです。つまり、ある人たちのようにくどくどと言葉数を並べ立てて祈るくらいなら、この祈りを祈りなさい、と言って、主イエスは主の祈りをお教えになるのですね。
先ほども申しましたが、ここで語られる主の祈りは、ルカによる福音書で見た主の祈りと少し文言や事柄の数などが違っています。実は、私たちが普段祈っている主の祈りというのは、マタイの主の祈りとルカの主の祈りをミックスさせたものを祈っています。ですから、私たちがいつも祈っているのはマタイのものともルカのものとも微妙に違っているのですね。このように新約聖書には主の祈りが二つ書かれているのですが、どちらが本当の主の祈りなのか、ということをつい思ってしまいます。しかし、おそらくどちらかが本物でどちらかは偽物だ、というのではなく、主イエスは弟子たちとの旅の中で、何度も主の祈りを教えられたのではないかと思うのですね。だから、このように二つの主の祈りが新約聖書では伝えられている、ということなのですね。
ところで、少し脱線しますけれども、主イエスはマタイの主の祈りの場面では「くどくどと祈ってはならない」とおっしゃいました。しかし、ルカの方では、主イエスはそれとは全く違うことを言われます。また今日のルカの箇所に戻っていただきたいと思います。今日の箇所で、主イエスは主の祈りをお語りになった後で、このようなことをおっしゃるのです。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」
これはたとえ話ですが、当時のパレスチナには旅人が家に訪ねて来たらもてなして食べ物などの世話をしなければならないという習慣がありました。それで、真夜中に友達が訪ねて来たので食べ物を用意しなければならないけど、それが足りないので、隣人にパンを貸してくれと頼みに行く。けれども、真夜中なので「こんな時間に面倒をかけないでくれ。子供も寝ているんだから」と言う。けれども、その人は、友達だからといって起きて何か与えるようなことはなくても、しつように、何度も頼めば必要なものは何でも与えてくれるだろう、と主イエスはおっしゃる。
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
つまり、ここでは主イエスは、祈るときには何度も何度も求めよ、しつように求めよ、ということをおっしゃるのです。人間だってしつように頼めば与えてくれるのだから、神はなおさら求める私たちに与えてくださるのだ、と主イエスはおっしゃるのです。これは、マタイ福音書で言われていたこととは真逆のように見えますね。マタイでは、「あなたがたはくどくどと述べてはならない」とおっしゃった。言葉数が多ければ聞き入れられるというものではない。しかし、ルカの方では繰り返し何度も何度も、しつように求めよ、とおっしゃる。これはどういうことか。
私たちは、祈るとなったら、自分の望みばかりを祈ってしまいがちな者です。もちろん、自分の望みを祈ってもいいのです。パウロも、自分の求めているものを神に打ち明けよ、と記しています。しかし、その一方で、私たちが心に望むことが果たしていつも神の御心に適っているだろうかということは、私たちはいつも自分を振り返って見る必要があります。私は本当に正しいことを祈れているだろうか。神が聞いて喜ばれることを祈れているだろうか。むしろ、自分勝手なことばかりを祈って、神を脇に置いてしまい、自分の祈りが罪深い欲望の捌け口になってはいないだろうか。私たちは、自分の内を振り返ってみるべきなのです。私の祈りは、本当に聞き届けられるべき祈りなのだろうか。
祈られるべき事柄があるのです。神が私たちに、こう祈るようにと望んでおられる祈りがあります。それは、私たちが求めていることをあれやこれやと並べ立てて、言葉数を重ねて祈ることではない。神が求めておられることを、私たちも求める祈りです。私の欲しいものではなく、神の求めておられることを私も求める、神の望みを私の望みとする、そういう祈りです。
私たちに、主イエスは「こう祈りなさい」と言って、お語りになります。それが主の祈りなのです。私たちが祈るべき祈りがそこには示されています。神が私たちに望んでおられる祈りが示されています。まさにこの祈りを、主イエスは何度も何度も、しつように祈るように言っておられるのです。神が私たちに望んでおられる祈りを、私たちが何度も何度も祈るように主イエスは語り掛けておられるのです。私の思いではない。私の望むことではない。神の御心を私の望みとして祈る。そういう祈りを、私たちが熱心に祈ることを主は望んでおられます。そういう祈りを何度も何度も、繰り返し祈ることは、決して「くどくどと祈る」ことにはならないのです。
ある神学者が、キリスト者とはどういう人のことだろうかと言った時に、「主の祈りを祈ることのできる人たちのことだ」と言いました。確かにそうかもしれないな、と思いました。「祈る人」というだけだと、他の宗教の人も含まれるでしょう。神社にお参りすることだって祈りの一種だと言えるかもしれません。しかし、「主の祈りを祈る人」はキリスト者だけです。主イエスが「こう祈りなさい」と言われた祈りを祈る。そうして、神が望んでおられることを私の望みとして祈る。それが私たちキリスト者であります。今週から、少しずつ主の祈りに聞いていきますが、私たちが何を祈ることを神が望んでおられるのか、よく心に覚えながら聞いていきたいと思います。
お祈りいたします。
天にいらっしゃいます父なる神様、御子なる主イエスは、「こう祈りなさい」と言って、私たちに主の祈りを教えてくださいました。そうして与えられた祈りを、私たちは毎主日ごとに礼拝の中で祈っています。祈る時には、自分の思いばかり、自分の望みばかりを祈ってしまう私たちです。しかし、そのような私たちのために、私たちが祈るべき祈り、あなたが私たちに望んでおられる祈りをお与えくださいました。どうぞ主よ、私たちが自分の思いよりも先に、あなたの御心を自分の望みとして祈ることが出来ますように、主の祈りを自らの祈りとして祈ることが出来ますように、どうぞ私たちの心を整えてください。そして、私たちがあなたの御心によって日々祈りが新しくされていきますようにどうぞお願いいたします。このお祈りを主イエス・キリストの御名によってお捧げ致します。アーメン。